「なぜ私は“推し”を他と比較して語らないのか」

志摩スペイン村に限らず、最近は「ファン」や「オタク」という言葉よりも、「推し」という言葉が一般的に使われるようになってきました。

私自身も、InstagramやYouTubeで志摩スペイン村の写真や映像を公開していますが、その中でできる限り気を付けていることがあります。

それは、「推し」を語るときに他者と比較しない、ということです。

スペイン村での推しは一人ではない

そもそも私の場合、スペイン村における「推し」は一人ではありません。
いわゆる「イケオジ」と呼んでいるスペイン人キャストの方や、パレードマスター、歴代のツアーコンダクター、いわゆる「キレキレお兄さん(コードネームw)」など、複数の方に魅力を感じています。もちろん、ここに挙げきれていない方も含めて、何人もの「推し」が存在しています。

また、出演のタイミングや天候によって、出会えるキャストの方が偏ることもあります。例えば、あるシーズンでは特定の方には晴天時に一度も遭遇できなかった、ということもありました。そうした偶然も含めて、それぞれに異なる魅力があり、「誰か一人を基準に優劣をつける」という考え方にはなりにくい環境でもあります。

つまり、私にとって「推し」は複数存在し、それぞれに異なる価値を持っています。

宝塚歌劇での違和感

こうした考え方に至った背景には、過去に感じたある違和感があります。

宝塚歌劇では、同一の演目が再演されることがあります。特に『エリザベート』のような人気作品では、さまざまなキャストによって何度も上演されています。

その中で、「トートは〇〇さんが一番だよね」「他の人よりすごい」といった、他者との比較を前提とした感想を目にすることがありました。私は別の方(××さん)の演技に強く惹かれていたこともあり、そうした言葉に対して、なんとも言えないモヤモヤを感じていました。

ここで興味深いのは、その感情の行き先です。本来であれば、発言に対して違和感を覚えるだけのはずなのに、気が付くと「〇〇さん」そのものに対して、どこか距離を感じてしまうことがあるのです。もちろん、〇〇さん自身には何の問題もなく、むしろ素晴らしいジェンヌであるはずです。それにもかかわらず、比較による評価が繰り返されることで、印象そのものが変化してしまう。

さらに、「△△さんは他と違う」といった、具体性や検証可能性のない評価を聞いたときにも、同様のモヤモヤを感じた経験があります。複数の出演者それぞれに魅力があると感じている場合、単純な優劣の枠組みに当てはめられること自体に違和感があるのかもしれません。

こうした経験から、私は「推し」を語るときに比較を持ち込まないようにしています。

私は推しを比較では語りたくない

推しを語るとき、「誰よりも上だ」「他より優れている」といった表現を目にすることは少なくありません。特に複数のファン層が存在する場合、比較はごく自然に発生します。しかし私は、意識的にその語り方を避けています。理由は単純で、比較による評価は、結果として推し自身の価値を下げる可能性があると感じているからです。

例えば、ある人がAという女優を称賛する際に「Bよりも優れている」と発言したとします。この発言は一見、Aを高く評価しているように見えます。しかしそれを受け取る側、特にBのファンにとってはどうでしょうか。そこには「自分の好きな存在が否定された」という感情が生まれやすくなります。そしてその反発は、発言者個人にとどまらず、「Aのファン全体」さらには「A本人」へと広がることがあります。

ここで起きているのは、対象に対する評価が周辺情報と結びついて変化する現象です。心理学ではこれを「評価の一般化(evaluative generalization)」や「連合による評価形成(evaluative conditioning)」と呼びます。つまり、「攻撃的なファンがいる」という情報が、「その対象もなんとなく好ましくない」という印象へと無意識に拡張されてしまうのです。また、自分が属する側(内集団)とそれ以外(外集団)を分けて捉える「内集団バイアス/外集団バイアス」も働き、外側に属する対象全体への評価が厳しくなる傾向もあります。

さらに、両方が推しの立場を考えると、この問題はより複雑になります。AもBも好きな人にとって、「Aを持ち上げるためにBを下げる発言」は、単なる比較ではなく、心の中に矛盾を生む行為になります。「どちらも好きなのに、片方がもう片方を否定している」という状況は心理的な不快感を伴います。これは心理学でいう「認知的不協和(cognitive dissonance)」の状態です。

この不協和を解消するために、人は無意識にどちらかの評価を調整しようとします。その結果、「Aのファンは苦手だ」という印象が生まれ、それがやがてA自身の評価にも影響していくことがあります。これは一つのネガティブな要素が全体評価に影響を与える「ホーン効果(horn effect)」と呼ばれる現象に近いものです。

ここで重要なのは、比較そのものが悪いというよりも、「比較を通じて価値を証明しようとすること」に限界があるという点です。誰かを高く評価するために、別の誰かを下げる必要は本来ありません。それにもかかわらず比較を持ち出してしまうと、評価は相対的なものとなり、「他より上だから良い」という構造に依存してしまいます。このような相対評価は基準が不安定であり、別の比較軸が提示された瞬間に容易に揺らいでしまいます。

私は、推しの魅力は「他と比べてどうか」ではなく、「それ自体としてどうか」で語られるべきだと考えています。演技の質、表現の幅、存在感、あるいは個人的に感じる魅力。それらは他者との優劣とは切り離して成立する価値であり、その方が純粋で、長く支持される評価になると感じています。

また、比較を避けることは、単に対立を避けるためだけではありません。むしろ、自分自身の「好き」という感情をより正確に言語化するためでもあります。「誰よりも良い」という言葉は強いですが、実は中身が曖昧になりやすい表現です。一方で、「この表情が好き」「このダンスでのステップが良かった」といった具体的な語りは、比較を必要としません。その分だけ、自分の感情に対して誠実でいられます。

結果として、比較で語らない姿勢は、推しを守ることにもつながります。他者を下げないことで無用な反発を生まず、ファン同士の摩擦も減ります。そして何より、推しの魅力をより純度の高い形で伝えることができます。

だからこそ私は、推しを語るときに他との優劣を持ち出しません。好きである理由は、他より上だからではなく、その存在そのものに価値を感じているからです。

(※本文中の心理学用語は理解を補助するための注釈的なものであり、厳密な実験条件や定義を簡略化して説明しています。)

投稿者プロフィール

maido
maido
模型工房M代表。
模型好き。カメラ好き。宝塚歌劇好き。
各模型雑誌で掲載多数。
艦船模型、飛行機模型、AFV模型などプラモデル全般の制作代行も承っております。製作代行のご案内ページは現在製作中です(2024年4月1日)

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